2021/10/05 08:04

最近は「自分が正しい」と主張してそれに従わない人をいじめる人が、増えている気がします。では「自分が正しい」と主張する人たちは、本当に自分の意見を持っているのでしょうか。誰かの借り物ではない「自分の意見」とは、自分の頭で考え抜いたあとに、ようやく出てくるものです。

そのように考えると、他者を思いやることができず、いじめても良心の呵責(かしゃく)を感じない人たちが、本当の意味での自分の意見を持っているのか、はなはだ疑問です。なぜなら、自分の頭で考えることができるのならば、当然、自分のことだけではなく他者に思いを馳せることもできるはずだからです。

「世間の常識」や「権威(自分の会社の上役、ボス的存在のママ友など)」に従って、権力者や世間の常識の代弁人となって力をふるっている人は、はたして自分の頭で考えているのでしょうか。自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像することができる人こそが、自分の意見を持てるのだと思います。

では、権力者の言うことや世間の常識を自分の意見だと思い込んで、そこから外れた人を許さないと考える人が増えてしまったのはどうしてなのでしょうか。

その背景には、面と向かって議論することが少なくなったことがあるのではと推測します。「自分が正しい」「これが世間の常識」と思っている人は、正面切って自らの意見を言うことは、あまりありません。それは本当に考え抜いた、その人の意見ではないからです。そして自分と違う意見や反対意見が出ると、「その意見は聞きたいとも思わないから、受けつけない。私には関係ない」と、話し合いの席に着こうともしません。

多くの人は、お互いの意見を面と向かってぶつけ合う経験を重ねることで、相手の意見を尊重すること、お互いの落としどころを見つけることの大切さを学んでいきます。しかし、昨今、面と向かって議論をする経験が乏しくなり、自分の意見が否定されたり、相手の意見を受け入れなければならなくなることに慣れていない人が増えているように思います。コロナ禍以降、対面で議論する場面はますます減ってしまいました。

「自分の身内」以外はどうでもいい
高度経済成長期やバブル期のように、努力すればそれに見合うだけの見返りがあった時代は、努力が報われる時代でした。人々は、未来は今よりももっといい時代になると本気で信じていました。

しかし今の時代は、努力をして一生懸命働けば必ず給料が右肩上がりになり、昇進に結び付く、という時代ではありません。だったら、努力なんかしないでそこそこの給料をもらって、プライベートで楽しみを見つければいい、と考える人が増えました。

そうなってくると、自分と自分の身内だけが大切で、その他の人のことはどうでもいいと考えるようになります。すると、他者と議論してお互いを理解しようとすることも面倒くさくなるというわけです。

でもちょっと待ってください。他者のことをどうでもいいと考えている人が増えているのならば、他の人が何をしようが関心がないわけですから、放っておけばいいはずです。それなのに、SNSで相手の意見をひたすら攻撃する人がいます。

つまりここでいう他者とは、2種類に分類されると思います。意見を言わない他者は、自分にとって人畜無害の存在。こういう人たちは、本当にどうでもいいので放っておく。けれど、自分の意見と合わない他者は、不快だから排除しようとバッシングをするわけです。自分と意見が合わない人を不快だと感じるのは、同調圧力に近いかもしれません。

もともと日本人は、地域の共同体や職場などお互いに知っている人間でつくったルールの中で生活してきました。特定のピアグループ(社会的立場・境遇などがほぼ同じ人たちで構成されるグループ)内においては意思決定や合意形成を行う際、少数意見を言う人たちに対して、プレッシャーをかけて多数派の意見に合わせるように誘導するという同調圧力が働いていました。

社会全体が右肩上がりだった時代は、自分たちにしか通用しないルールを設けて、社内の意見を1つの方向性に統一させるという方針でも通用していましたが、平成・令和になるとそのような会社は時代の変化に対応できなくなり、倒産したり、吸収合併されたりしています。

コミュニケシーションを避ける人増えた背景
これからの時代は、好むと好まざるとにかかわらず、自分たちのルールを守っていくだけではやっていけないのです。価値観を多様化させ、時代の変化に対応していかなければ、すぐにそっぽを向かれてしまいます。

自分と価値観や考え方が合う人間だけを大切にして、そこから外れた人のことは排除していじめるというのは、まさに他者に思いを馳せられない人がすることで、これからの時代には到底許されることではありません。

前述したように、今の時代は他者と議論してお互いに理解を深めようという人は減っています。別の言い方をすると、他者とのコミュニケーションを回避する傾向にあるといっていいでしょう。コミュニケーション回避の別の要因として、私は、幼少期の遊びの変化が影響しているのではないかと考えています。

私が子どもの頃(1960年代)は、地域の子どもたちと一緒になってよく外遊びをしました。小学校低学年の子から中学生くらいまでと、遊び仲間の年齢も違えば家庭環境もさまざまでした。威張っている子もいれば、気の弱い子もいました。

年齢がバラバラだと、一緒に遊ぶ中でいろいろと工夫をします。小学校低学年の小さい子たちと遊ぶときは、大きい子たちにはハンディをつけたり、独自のルールを設けたりしました。自分たちで新しい遊びを考えたりするのも、楽しい試みでした。

子どもはいろいろなタイプの子と遊ぶことによって学びを得て、精神的に成長していくものです。それは大人になって、社会に出て働くようになってからも役に立ちます。職場にはさまざまなタイプの人間がいますから、子どもの頃からいろいろなタイプの人と付き合っていると自分とは意見が合わない人がいたとしても、話し合うことで何とか折り合いをつけていこう、という思考になります。

ところが今は(というか、もう何十年も前から)、子どもたちが外で遊ばなくなりました。子どもたちは、学校が終わったら塾や習い事の予定がつまっていて、遊ぶ時間がないのです。また、たまに遊んでいる子たちを見かけても、公園で2、3人くらいでゲームをしています。5人以上で、いろんな学年の子どもが一緒に遊んでいるという風景は、少なくなってきています。

1980年代から共感能力が低下傾向に
大学生を対象に海外で実施された「心の理論の能力」を調べた結果によると、1980年代から共感能力が下がっていると報告されたそうです。特に「共感的配置」と「対人関係における感受性」の能力が悪化しています。「共感的配置」とは辛い状況の人に共感できる能力。「対人関係における感受性」は、別の人間の価値観にのっとり、その人の視点で世の中を見る能力のことです。

心の理論の能力は、他人のしぐさや表情、行動などを繰り返し観察することで得られる能力ですが、人と人との直接的なコミュニケーションが減っていったことで、心の理論の能力が落ちたと言われています。

1980年代に大学生だった人は、だいたい1970年代に子ども時代を過ごしています。日本でも1970年代あたりから、子どもたちは外遊びよりもテレビゲームをやる子どもが増えてきていますから、海外での調査結果と一致するでしょう。

1970年代に子どもだった人の世代あたりから、他者とコミュニケーションを取ることが苦手な子どもが増えるようになったと言えるのではないでしょうか。その結果、心の理論の能力が落ち、他者とどう接していいかわからない人が増えてコミュニケーションを回避するようになったのでしょう。


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